つたのだね。俺は、かすり傷一つ負はなかつたのだ。」
「そしてその学生の方は。」
「重傷だね。助からないかも知れないよ。まあ奇禍と云ふんだね。」
静子は、夫が免れた危険を想像する丈《だ》けで、可なり激しい感動に襲はれたと見え、目を刮《みは》つたまゝ暫らくは物も云はなかつた。
信一郎も、何だか不安になり始めた。奇禍に逢つたのは、大学生ばかりではないやうな気がした。自分も妻も、平和な気持を、滅茶々々にされた事が、可なり大きい禍であるやうに思つた。が、そればかりでなく、時計やノートを受け継いだ事に依つて、青年の恐ろしい運命をも、受け継いだやうな気がした。彼は、楽しく期待した通り静子に逢ひながら、優しい言葉一つさへ、かけてやる事が出来なかつた。
夫と妻とは、蒼白《まつさを》になりながら、黙々として相対してゐた。信一郎は、ポケットに入れてある時計が、何か魔の符でもあるやうに、気味悪く感ぜられ始めた。
美しき遅参者
一
青年の横死は、東京の各新聞に依つて、可なり精しく伝へられた。青年が、信一郎の想像した通り青木男爵の長子であつたことが、それに依つて証明された。が、不
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