「御気分が悪さうね。何うかしたのですか。湯衣《ゆかた》にお着換へなさいまし。それとも、お寒いやうなら褞袍《どてら》になさいますか。」
さう云ひながら静子は甲斐々々しく信一郎の脱ぐ上衣を受け取つたり、襯衣《シャツ》を脱ぐのを手伝つたりした。
その中に、上衣を衣桁《いかう》にかけようとした妻は、ふと、
「あれ!」と、可なりけたゝましい声を出した。
「何うしたのだ。」信一郎は驚いて訊いた。
「何でせう。これは、血ぢやなくて。」
静子は、真蒼になりながら、洋服の腕のボタンの所を、電燈の真近に持つて行つた。それは紛ぎれもなく血だつた。一寸四方ばかり、ベツトリと血が浸《に》じんでゐたのである。
「さうか。やつぱり付いてゐたのか。」
信一郎の声も、やゝ顫ひを帯びてゐた。
「何《ど》うかしたのですか。何うかしたのですか。」気の弱い静子の声は、可なり上ずツてゐた。
信一郎は、妻の気を落着けようと、可なり冷静に答へた。
「いや何うもしないのだ。たゞ、自動車が崖にぶつ突《つ》かつてね。乗合はしてゐた大学生が負傷したのだ。」
「貴君《あなた》は、何処もお負傷《けが》はなかつたのですか。」
「運がよか
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