れは、妾《わたくし》の貴君《あなた》に対する愛の印として、貴君に差し上げますのよ。本当は、かけ替のない秘蔵の品物ですけれど。』と、云ひながら二人を翻弄し去つた女性が、果して何人《なんぴと》であるかが、信一郎にはもうハツキリと分つてしまつた。
『汝妖婦よ!』
 彼は心の中《うち》で再びさう声高く、叫ばずにはゐられなかつた。
 が、信一郎の心を、もつと痛めたことは、兄が恐ろしく美しい蜘蛛の糸に操られて、悲惨な横死を――形は奇禍であるが、心は自殺を――遂げたと云ふことを夢にも知らないで、その肉親の弟が、又同じ蜘蛛の網に、ウカ/\とかゝりさうになつてゐることだつた。いや恐らくかゝつてゐるのかも知れない。いや、兄と同じやうに、もう白金《プラチナ》の時計を貰つてゐるのかも知れない。あゝして、話してゐる中《うち》に、相手の海軍大尉の腕時計に、気が付くのかも知れない。兄の血と同じ血を持つてゐる筈の弟は、それを見て兄と同じやうに激昂する。兄と同じやうに自殺を決心する。
 さう考へて来ると、信一郎は、烈々と輝いてゐる七月の太陽の下に、尚|周囲《あたり》が暗くなるやうに思つた。兄が陥つた深淵へ又、弟が陥ちか
前へ 次へ
全625ページ中394ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング