かつてゐる。それほど、悲惨なことはない。さう思ふと、信一郎は、
『おい! 君!』と、高声に注意してやりたい希望に動かされた。が、それと同時に、血を分けた[#「血を分けた」は底本では「血を分けて」]兄弟を、兄に悲惨な死を遂げしめた上に、更に弟をも近づけて、翻弄しようとする毒婦を憎まずにはゐられなかつた。
『汝妖婦よ!』彼は、心の中《うち》でもう一度さう叫んだ。が、信一郎が、これほど心を痛めてゐるにも拘らず、当の青年は、何が可笑《をか》しいのか、軽く上品に笑つてゐるのが、手に取るやうに聞えて来た。
 信一郎は、見るべからざるものを見たやうに、面《おもて》を背けて足早に門を駈け出《い》でたのである。

        五

 新宿行の電車に乗つてからも、信一郎の心は憤怒や憎悪の烈しい渦巻で一杯だつた。
 瑠璃子夫人こそ、白金《プラチナ》の時計を返すべき当の本人であることが解ると、夫人の美しさや気高さに対する讃嘆の心は、影もなくなつて、憎悪と軽い恐怖とが、信一郎の心に湧いた。
 青木淳の死の原因が、直接ではなくても、間接な原因が、自分であることを知りながら、嫣然として時計を受け取つた夫人の態度
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