真鶴から湯河原迄の軽便の汽車の中でも、駅から湯の宿までの、田舎馬車の中でも、信一郎の頭は混乱と興奮とで、一杯になつてゐた。その上、衝突のときに、受けた打撃が現はれて来たのだらう、頭がヅキ/\と痛み始めた。
青年のうめき声や、吐血の刹那や、蒼白んで行つた死顔などが、ともすれば幻覚となつて、耳や目を襲つて来た。
静子に久し振に逢へると云つたやうな楽しい平和な期待は、偶然な血腥《ちなまぐさ》い出来事のために、滅茶苦茶になつてしまつたのである。静子の初々しい面影を、描かうとすると、それが何時の間にか、青年の死顔になつてゐる。「静子! 静子!」と、口の中で呼んで、愛妻に対する意識を、ハツキリさせようとすると、その声が何時の間にか「瑠璃子! 瑠璃子!」と、云ふ悲痛な断末魔の声を、思ひ浮べさせたりした。
馬車が、暗い田の中の道を、左へ曲つたと思ふと、眼の前に、山|懐《ふところ》にほのめく、湯の街の灯影が見え始めた。
信一郎は、愛妻に逢ふ前に、何うかして、乱れてゐる自分の心持を、整へようとした。なるべく、穏やかな平静な顔になつて、自分の激動《ショック》を妻に伝染《うつ》すまいとした。血腥い青年
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