『汝妖婦よ!』
 信一郎は、心の中で、さう叫び続けた。彼は、客間から玄関までの十間に近い廊下を、電光の如くに歩んだ。
 周章《あわ》てゝ見送らうとする玄関番の少年にも、彼は一瞥をも与へなかつた。
 彼は突き破るやうな勢ひで、玄関の扉に手をかけた。
 が、その刹那であつた。
 信一郎の興奮した耳に、冷水を注ぐやうに、
「渥美さん! 渥美さん! 一寸お待ち下さい。」と、云ふ夫人の美しい言葉が聞えて来た。信一郎はそれを船人の命を奪ふ妖魚《サイレン》の声として、そのまゝ聞き流して、戸外へ飛び出さうと思つた。が、彼のさうした決心にも拘はらず、彼の右の手は、しびれたやうに、扉《ドア》の把手《ハンドル》にかゝつたまゝ動かなかつた。
「何うなすつたのです。本当にびつくりいたしましたわ。何をそんなにお腹立ち遊ばしたの。」夫人は小走りに信一郎に近づきながら、可愛い小さい息をはずませながら云つた。
 心配さうに見張つた黒い美しい眸、象牙彫のやうに気高い鼻、端正な唇、皎い艶やかな頬、かうした神々しい※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《らふ》たけた夫人の顔を見てゐると、彼女に嘘、偽り
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