が、夢にもあらうとは思はれなかつた。彼女の微笑や言葉の中に、微塵賤しい虚偽が、潜んでゐようとは思はれなかつた。
「何《ど》うして、そんなに早くお帰り遊ばすの。妾《わたくし》、皆さんがお帰りになつた後で、貴君と丈《だけ》で、ゆつくりお話してゐたかつたの。秋山さんと云ふ方は、本当にあまんじやく[#「あまんじやく」に傍点]よ。反対のために反対していらつしやるのですもの。それをまた、みんなが迎合するのだから、厭になつてしまひますわね。客間《サロン》にいらつしやるのがお厭なら、図書室《ライブラリー》の方へ、御案内いたしますわ。あなたのお好きな『紅葉全集』でも、お読みになつて、待つていらつしやいませ。妾《わたくし》、もう三十分もすれば、何とか口実を見付けて、皆さんに帰つていたゞきますわ。ほんの少しの間、待つてゐて下さらない?」

        三

『ほんの少し待つてゐて下さらない?』と、云ふ夫人の言葉を聴くと、『汝妖婦よ!』と、心の中で叫んでゐた信一郎の決心も、またグラ/\と揺がうとした。
 が、彼は揺がうとする自分の心を、辛うじて、最後の所で、グツと引き止めることが出来た。お前はもう既に、夫
前へ 次へ
全625ページ中388ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング