か分らなかつた。
 彼は、吃りながら、さう云つてしまふと、泳ぐやうな手付で、並んだ椅子の間を分けながら扉《ドア》の方へ急いだ。
 遉《さすが》に一座の者は固唾を飲んだ。今まで瑠璃子夫人を挟《さしは》さんで、鞘当的な論戦の花が咲いたことは幾度となくあつたが、そんな時に、形もなく打ち負された方でも、こんなにまで取り擾したものは一人もなかつた。
 真蒼な顔をして、憤然として、立ち出でて行く信一郎を、皆は呆気に取られて見送つた。
 信一郎は、もう美しい瑠璃子夫人にも何の未練もなかつた。後に残した華やかな客間を、心の中で唾棄した。夫人の艶美な微笑も蜜のやうな言葉も、今は空の空なることを知つた。否、空の空なるか、ではなくして、その中に恐ろしい毒を持つてゐることを知つた。それは、目的のための毒ではなくして、毒のための毒であることを知つた。彼女は、目的があつて、男性を翻弄してゐるのではなく、たゞ翻弄することの面白さに、翻弄してゐることを知つた。自分の男性に対する魅力を、楽しむために、無用に男性を魅してゐることを知つた。丁度、激しい毒薬の所有者が、その毒の効果を自慢して妄《みだり》に人を毒殺するやうに。
前へ 次へ
全625ページ中386ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング