、手づから扉《ドア》を開けると、『僕です。』と、名乗つた男は、軽く会釈をしながら、入つて来た。信一郎は、一目見たときに、何処かで見覚えのある顔だと思つたが、一寸思ひ出せなかつた。が、一目見た丈《だけ》で、作家か美術家であることは、直ぐ解つた。白い面長な顔に、黒い長髪を獅子の立髪か何かのやうに、振り乱してゐた。が、頭は極端に奔放であるにも拘はらず、薩摩上布の衣物《きもの》に、鉄無地の絽の薄羽織を着た姿は、可なり瀟洒たるものだつた。夫人はその男とは、立ちながら話した。
「暫く御無沙汰致しました。」
「ほんたうに長い間お見えになりませんでしたのね。箱根へお出でになつたつて、新聞に出てゐましたが、行らつしやらなかつたの。」
「いや、何処へも行きやしません。」
「それぢや、やつぱり例の長篇で苦しんでゐらしつたの。本当に、妾《わたくし》の家へいらつしやる道を忘れておしまひになつたのかと思つてゐましたの。ねえ! 三宅さん。」
夫人は、三宅と云ふ学生を顧みた。
「やあ!」
「やあ!」
三宅とその男とは顔を見合して挨拶した。
「本当に、暫らくお見えになりませんでしたね。貴君《あなた》が、いらつしやら
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