せるやうに、夫人の蜜のやうに[#「蜜のやうに」は底本では「密のやうに」]甘い呼吸と、音楽のやうに美しい言葉とに全身を浸してゐた。


 客間の女王

        一

 帝劇のボックスに、夫人と肩を並べて、過した数時間は、信一郎に取つては、夢とも現《うつゝ》とも分ちがたいやうな恍惚たる時間だつた。
 夫人の身体全体から出る、馥郁たる女性の香が、彼の感覚を爛し、彼の魂を溶かしたと云つてもよかつた。
 彼は、其夜、半蔵門迄、夫人と同乗して、其処で新宿行の電車に乗るべく、彼女と別れたとき、自動車の窓から、夜目にもくつきりと白い顔を、のぞかしながら、
「それでは、此次の日曜に屹度《きつと》お訪ね下さいませ。」と、媚びるやうな美しい声で叫んだ夫人の声が、彼の心の底の底まで徹するやうに思つた。彼は、其処に化石した人間のやうに立ち止まつて、葉桜の樹下闇を、ほの/″\と照し出しながら、遠く去つて行く自動車の車台の後の青色の灯を、何時までも何時までも見送つてゐた。彼の頬には、尚夫人の甘い快い呼吸《いき》の匂が漂うてゐた。彼の耳の底には、夫人の此世ならぬ美しい声の余韻が残つてゐた。彼の感覚も心も、夫人
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