つても、たゞ一分間ばかり黙つてゐたのに過ぎないが――会話の緒《いとぐち》を見付けた。
「先刻、一寸立ち聴きした訳ですが、大変|仏蘭西《フランス》語が、お上手でいらつしやいますね。」
「まあ! お恥かしい。聴いていらしつたの。動詞なんか滅茶苦茶なのですよ。単語を並べる丈。でもあのアンナと云ふ方、大変感じのいゝ方よ。大抵お話が通ずるのですよ。」
「何うして滅茶苦茶なものですか。大変感心しました。」
信一郎は心でもさう思つた。
「まあ! お賞めに与つて有難いわ。でも、本当にお恥かしいのですよ。ほんの二年ばかり、お稽古した丈《だけ》なのですよ。貴君は仏法の出身でいらつしやいますか。」
「さうです。高等学校時代から、六七年もやつてゐるのですが、それで会話と来たら、丸切り駄目なのです。よく、会社へ仏蘭西《フランス》人が来ると、私|丈《だけ》が仏蘭西《フランス》語が出来ると云ふので、応接を命ぜられるのですが、その度毎に、閉口するのです。奥さんなんか、このまゝ直ぐ外交官夫人として、巴里《パリー》辺の社交界へ送り出しても、立派なものだと思ひます。」
信一郎は、つい心からさうした讃辞を呈してしまつた。
前へ
次へ
全625ページ中346ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング