、彼の生涯に再び得がたい貴重な三四分のやうに思はれた。彼の生涯を通じて、宝石のやうに輝く、尊い瞬間のやうに思はれた。彼は、その時間を心の底から、享け入れようと思つてゐた。が、さう決心した刹那に、もう自動車は、公園の蒼い樹下闇《このしたやみ》を、後に残して、上野山下に拡がる初夏の夜、さうだ、豊《ゆたか》に輝ける夏の夜の描けるが如き、光と色との中に、馳け入つてゐるのだつた。時は速い翼を持つてゐる。が、此の三四分の時間は、電光その物のやうに、アツと云ふ間もなく過ぎ去らうとしてゐる。
試験の答案を書く時などに、時間が短ければ短いほど、冷静に筆を運ばなければならないのに、時間があまりに短いと、却《かへつ》てわく/\して、少しも手が付かないやうに、信一郎も飛ぶが如くに、過ぎ去らうとする時間を前にして、たゞ茫然と手を拱いてゐる丈《だけ》だつた。
然るに、瑠璃子夫人は悠然と、落着いてゐた。親しい友達か、でなければ自分の夫とでも、一緒に乗つてゐるやうに、微笑を車内の薄暗《うすやみ》に、漂はせながら、急に話しかけようともしなかつた。
丁度、自動車が松坂屋の前にさしかゝつた時、信一郎は、やつと――と言
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