もいゝだらうか。もし、臨検の巡査にでも、咎められたら、何と返事をしたらいゝだらう。死人に口なく、死に去つた青年が、自分のために、弁解して呉れる筈はない。自分は、人の死屍から、高貴な物品を、剥ぎ取る恐ろしい卑しい盗人と思はれても、何の云ひ訳もないではないか。青年の遺言を受けたと抗弁しても、果して信じられるだらうか。
 さう考へると、信一郎の心は、だん/\迷ひ始めた。妙ないきがかり[#「いきがかり」に傍点]から、他人の秘密にまで立ち入つて、返すべき人の名前さへ、判然とはしない時計などを預つて、つまらぬ心配や気苦労をするよりも、たゞ乗り合はした一個の旅の道伴《みちづれ》として、遺言も何も、聴かなかつたことにしようかしら。
 が、かう考へたとき、信一郎の心の耳に、『お願ひで――お願ひです。時計を返して下さい。』と云ふ青年の、血に咽ぶ断末魔の悲壮な声が、再び鳴り響いた。それに応ずるやうに、信一郎の良心が、『貴様は卑怯だぞ。貴様は卑怯だぞ。』と、低く然しながら、力強く囁《さゝや》いた。
『さうだ。さうだ。兎に角、瑠璃子と云ふ女性を探して見よう。たとひ、それが時計を返すべき人でないにしろ、その人は屹
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