つた。しかも撫でてゐる指先が、何かツブ/\した物に触れたので、眸を凝すと、鋭い光を放つ一顆の宝石が、鏤められてゐた。而もそれは金で象眼された小さい短剣の柄に当つてゐた。それは希臘《ギリシヤ》風の短剣の形だつた。復讐の女神ネメシスが、逆手に掴んでゐるやうな、短剣の形だつた。信一郎は、その特異な、不思議な象眼に、劇しい好奇心を、唆られずにはゐられなかつた。時計の元来の所有者は、女性に違ひなかつた。が、その象眼は、何と云ふ女らしからぬ、鋭い意匠だらう。
日は、もうとつぷりと、暮れてしまつた。海上にのみ、一脈の薄明が、漂うてゐるばかりだつた。運転手は、なか/\帰つて来なかつた。淋しい海岸の一角に、まだ生あたゝかい死屍を、たゞ一人で見守つてゐることは、無気味な事に違ひなかつた。が、先刻から興奮し続けてゐる信一郎には、それが左程、厭はしい事にも気味の悪い事にも思はれなかつた。彼はある感激をさへ感じた。人として立派な義務を尽してゐるやうに思つた。
信一郎は、ふとかう云ふ事に気が付いた。たとひ、青年からあゝした依託を受けたとしても、たゞ黙つて、此の高価な白金《プラチナ》の時計を、死屍から持ち去つて
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