に、思はず戦慄を禁じ得なかつた。
五
が、時計を返すとして、一体誰に返したらいゝのだらうかと、信一郎は思つた。青年が、死際に口走つた瑠璃子と云ふ名前の女性に返せばいゝのかしら。が、瑠璃子と云つたのは、時計を返すべき相手の名前を、云つたのだらうか。時計などとは何の関係もない、青年などとは何の関係もない青年の恋人か姉か妹かの名ではないのかしら。
『時計を返して呉れ。』と云つたとき、青年の意識は、可なり確《たしか》だつた。が、息を引き取る時には、青年の意識は、もう正気を失つてゐた。
『瑠璃子!』と、叫んだのは、たゞ狂つた心の最後の、偶然な囈語《うはごと》で、あつたかも知れなかつた。が、瑠璃子と云ふ名前は、青年の心に死の刹那に深く喰ひ入つた名前に違ひなかつた。丁度、腕時計が、死の刹那に彼の手首の肉に、喰ひ入つてゐたやうに。
信一郎は、再度その小形な腕時計を、手許に迫る夕闇の中で、透して見た。ぢつと、見詰めてゐると最初銀かニッケルと思つた金属は、銀ほどは光が無くニッケルほど薄つぺらでないのに、気が付いた。彼は指先で、二三度撫でて見た。それは、紛ぎれもなく白金《プラチナ》だ
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