死の場合に、心から信一郎を信頼したのだらう。いや、信頼する外には、何の手段もなかつたのだ。
信一郎は、青年の死際の懸命の信頼を、心に深く受け入れずにはをられなかつた。名乗り合つたばかりの自分に、心からの信頼を置いてゐる。人間として、男として、此の信頼に背く訳には、行かないと思つた。
人が、臨終の時に為す信頼は、基督正教《カトリック》の信徒が、死際の懺悔と同じやうに、神聖な重大なものに違ひないと思つた。縦令《たとひ》、三十分四十分の交際であらうとも、頼まれた以上、忠実に、その信頼に酬いねばならぬと思つた。
さう思ひながら、信一郎は死者の右の手首から、恐る恐る時計を脱《はづ》して見た。時計も、それを腕に捲く腕輪も、銀か白銅《ニッケル》らしい金属で出来てゐた。ガラスは、その持主の悲惨な最期に似て、微塵に砕け散つてゐた。夕暮の光の中で、透して見ると、腕輪に附いてゐる止め金が、衝突のとき、皮肉を切つたのだらう。軽い出血があつたと見え、その白つぽい時計の胴に、所々真赤な血が浸《にじ》んでゐた。今までは、興奮のために夢中になつてゐた信一郎も、それを見ると、今更ながら、青年の最期の、むごたらしさ
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