のウ※[#小書き片仮名ヰ、20−下−20]スキイだつたが――取られて、望み多い未来を、不当に予告なしに、切り取られてしまつた情なさ、淋しさは、どんなであつただらう。彼は、息を引き取るとき、親兄弟の優しい慰藉の言葉に、どんなに渇ゑたことだらう。殊に、母か姉妹か、或は恋人かの女性としての優しい愛の言葉を、どんなに欲しただらう。彼が、口走つた瑠璃子と云ふ言葉は、屹度《きつと》、さうした女性の名前に違ひないと思つた。
その裡に、信一郎の心に、青年の遺した言葉が考へられ始めた。彼は、最初にかう疑つて見た。他人同然の彼に、何《ど》うして時計のことを云つたのだらう。若《も》し、時計が誰かに返さるべきものなら名乗り合つたばかりの信一郎などに頼まないでも、遺族の人の手で、当然返さるべきものではなからうか。が、信一郎は、直ぐかう思ひ返した。青年はノートの内容も、時計を返すことも、遺族の人々には知られたくなかつたのだらう。親兄弟には、飽くまでも、秘密にして置きたかつたのであらう。而も秘密に時計を返すには、信一郎に頼む外には、何の手段もなかつたのだ。人間が人間を信じることが一つの美徳であるやうに、此青年も必
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