のではないかと思つた。それを金科玉条のやうに、一生懸命に守つて、待ちつゞけてゐた自分が、少し馬鹿らしくなつた。夫人は、屹度《きつと》混雑を避けて、別の出口から、もうとつくに帰り去つたに違ひない。さう思つて、彼が軽い失望を感じながら、踵《きびす》を返さうとした時だつた。階段の上から、軽い靴音と、やさしい衣擦《きぬずれ》の音と、流暢な仏蘭西《フランス》語の会話とが聞えて来た。彼が、軽い駭《おどろ》きを感じて、見上げると、階段の中途を静《しづか》に降りかかつてゐるのは、今日の花形《スタア》なるアンナ・セザレウ※[#小書き片仮名ヰ、164−下−11]ッチと瑠璃子夫人とだつた。その二人の洗ひ出したやうな鮮さが、信一郎の心を、深く深く動かした。一種敬虔な心持をさへ懐かせた。白皙な露西亜《ロシア》美人と並んでも、瑠璃子夫人の美しさは、その特色を立派に発揮してゐた。殊に、そのスラリとして高い長身は、凡ての日本婦人が白人の女性と並び立つた時の醜さから、彼女を救つてゐた。
 信一郎は、うつとり[#「うつとり」に傍点]として、名画の美人画をでも見るやうに、暫らくは見詰めてゐた。
 それと同じやうに、彼を駭か
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