、帰還したやうに、銘々に会釈した。彼女が多くの男性に囲まれてゐるのを見ると、信一郎の心は、妙な不安と動揺とを感ぜずにはゐられなかつたのである。

        四

 それから、演奏が終つてしまふまで、信一郎は、ピアノの快い旋律と、瑠璃子夫人の残して行つた魅惑的な移り香との中に、恍惚として夢のやうな時間を過してしまつた。
 最後の演奏が終つて、華やかな拍手と共に、皆が立ち上つたとき、信一郎は夢から、さめたやうに席を立ち上つた。
 彼は、自分から先刻《さつき》の約束を守るために、瑠璃子夫人を探し求めるほど大胆ではなかつた。それかと云つて、その儘帰つてしまふには、彼は夫人の美しさに、支配され過ぎてゐた。彼は聴衆に先立つて階段を降りたものゝ、階段の下で誰かを待つてでもゐるやうに、躊躇してゐた。
 美しい女性の流れが、暫らくは階段を滑つてゐた。が、待つても、待つても夫人の姿は見えなかつた。
 彼が、待ちあぐんでゐる裡に、聴衆は降り切つてしまつたと見え、下足の前に佇んでゐる人の数がだん/\疎《まばら》になつて来た。
 彼は『一緒にお茶を飲まう。』と云ふことが、たゞ一寸した、夫人のお世辞であつた
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