三
丁度その時、兄のセザレウ※[#小書き片仮名ヰ、162−下−8]ッチの奏《ひ》き初めた曲は、ショパンの前奏曲《プレリュウド》だつた。聴衆は、水を打つたやうな静寂《しゞま》の裡に、全身の注意を二つの耳に蒐めてゐた。が、その中で、信一郎の注意|丈《だけ》は、彼の左半身の触覚に、溢れるやうに満ち渡つてゐた。彼の左側には、瑠璃子夫人が、坐つてゐたからである。彼女は、故意にさうしてゐるのかと思はれるほどに、その華奢な身体を、信一郎の方へ寄せかけるやうに、坐つてゐた。
信一郎は、淡彩に夏草を散らした薄葡萄色の、金紗縮緬の着物の下に、軽く波打つてゐる彼女の肉体の暖かみをさへ、感じ得るやうに思つた。
彼女は、演奏が初まると、直ぐ独語のやうに、「雨滴《レインドロップス》のプレリュウドですわね。」と、軽く小声で云つた。それは、いかにもショパンの数多い前奏曲の中、『雨滴の前奏曲』として、知られたる傑作だつた。
彼女は、演奏が進むに連れて、彼女の膝の、夏草模様に、実物剥製の蝶が、群れ飛んでゐる辺《あたり》を、其処に目に見えぬ鍵盤が、あるかのやうに、白い細い指先で、軽くしなやかに、打ち続けてゐるの
前へ
次へ
全625ページ中335ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング