の途端、信一郎の肩を軽く軟打《パット》するものがあつた。彼は駭《おどろ》いて、振り顧つた。そこに微笑する美しき瑠璃子夫人の顔があつた。
「よくいらつしやいましたのね。先刻からお探ししてゐましたのよ。」
 信一郎の言ふべきことを、向うで言ひながら、瑠璃子は、信一郎と並んで其処に空《あ》いてゐた椅子に腰を下した。
「あまりお見えにならないものですから、いらつしやらないのかと思つてゐましたのよ。」
 信一郎の方から、改めて挨拶する機会のないほど、向うは親しく馴々しく、友達か何かのやうに言葉をかけた。
「先日は、何《ど》うも失礼しました。」
 信一郎は、遅ればせに、ドギマギしながら、挨拶した。
「いゝえ! 妾《わたくし》こそ。」
 彼女は、小波《さゞなみ》一つ立たない池の面《おも》か何かのやうに、落着いてゐた。
 丁度、その時に兄のニコライ・セザレウ※[#小書き片仮名ヰ、162−下−3]ッチが壇上に姿を現した。が、瑠璃子夫人は立たうとはしなかつた。
「妾《わたくし》、暫らく茲《こゝ》で聴かせていただきますわ。」
 彼女は、信一郎に云ふともなく独語《ひとりごと》のやうに呟いた。

       
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