ては、妻に対して吐かねばならぬ最初の冷たい言葉だつた。
「音楽会に行くから、お前も支度をおしなさい。」
 さうした言葉|丈《だけ》しか、聞かなかつた静子には、それが可なり冷たく響くことは、信一郎には余りによく判つてゐた。
 彼は、ぼんやり縁側に立つてゐるかと思ふと、また、何かを思ひ出したやうに二階へ上つた。が、机の前に坐つても、少しも落着かなかつた。彼は、思ひ切つて妻に云ふ積りで、再び階下へ降りて来た。
 が、解《ほど》き物をしながら、階段を降りて来る夫の顔を見ると、心の裡の幸福が、自然と弾み出るやうな微笑を浮べる妻の顔を見ると、手軽に云つて退《の》ける筈の言葉が、またグツと咽喉にからんでしまつた。
「あら! 貴君《あなた》、先刻《さつき》から何をそんなに、ソハソハしていらつしやるの?」
 無邪気な妻は夫の図星を指してしまつた。指さゝれてしまふと、信一郎は却つて落着いた。
「うつかり忘れてゐたのだ。今日は専務が米国へ行くのを送つて行かなければならないのだつた!」
 彼は、咄嗟に今日出発する筈の専務のことを思ひ出したのだ。
「何時の汽車? これから行つても、間に合ふのでございますか?」

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