静子は一寸心配さうに云つた。
「間に合ふかも知れない。確か二時に新橋を立つ筈だから。」
 さう云ひながら、信一郎は柱時計を見上げた。それは、一時を廻つたばかりだつた。
「ぢや、早くお支度なさいまし。」解《ほど》き物を、掻きやつて、妻は、甲斐々々しく立ち上つた。
 信一郎は、最初の冷たい言葉を云ふ代りに、最初の嘘を云つてしまつた。その方が、ズツと悪いことだが。

        二

 その日の音楽会は、露西亜のピアニスト若きセザレウ※[#小書き片仮名ヰ、161−上−6]ッチ兄妹の独奏会だつた。
 去年から今年にかけて、故国の動乱を避けて、漂泊《さすらひ》の旅に出た露西亜《ロシア》の音楽家達が、幾人も幾人も東京の楽壇を賑はした。其中には、ピヤノやセロやヴァイオリンの世界的名手さへ交つてゐた。セザレウ※[#小書き片仮名ヰ、161−上−11]ッチ兄妹もやつぱり、漂泊《さすらひ》の旅の寂しさを、背負つてゐる人だつた。殊に、妹のアンナ・セザレウ※[#小書き片仮名ヰ、161−上−13]ッチの何処か東洋的な、日本人向きの美貌が、兄妹の天才的な演奏と共に、楽壇の人気を浚つて[#「浚つて」は底本では「
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