で来て、其処には居合はさぬ妻に対する愛撫の微笑が、何時の間にか、浮かんでゐた。彼は、それを誰かに、気付かれはしないかと、恥しげに車内を見廻はした。が、例の仏蘭西《フランス》の少年が、その時、
「|お母親さん《マヽン》!」と声高に呼びかけた外には、乗合の人々は、銘々に何かを考へてゐるらしかつた。
汽車は、海近い松林の間を、轟々と駆け過ぎてゐるのであつた。
二
湯の宿の欄干に身を靠《もた》せて、自分を待ちあぐんでゐる愛妻の面影が、汽車の車輪の廻転に連れて消えたりかつ浮かんだりした。それほど、信一郎は新しく婚した静子に、心も身も与へてゐたのである。
つい三月ほど前に、田舎で挙げた結婚式のことを考へても、上京の途すがら奈良や京都に足を止めた蜜月旅行らしい幾日かの事を考へても、彼は静子を獲たことが、どんなに幸福を意味してゐるかをしみ/″\と悟ることが出来た。
結婚の式場で示した彼女の、処女らしい羞しさと、浄らかさ、それに続いた同棲生活に於て、自分に投げて来た全身的な信頼、日が経つに連れて、埋もれてゐた宝玉のやうに、だん/\現はれて来る彼女のいろ/\な美質、さうしたこと
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