楽だつた。彼等は、屹度《きつと》声高に、喋り散らしたり、何かを食べ散らしたり、無作法に振舞つたりすることに依つて、現在以上に信一郎の心持をいら/\させたに違ひなかつたから。
日は、深く翳つてゐた。汽車の進むに従つて、隠見する相模灘はすゝけた銀の如く、底光を帯《おび》たまゝ澱んでゐた。先刻《さつき》まで、見えてゐた天城山も、何時の間にか、灰色に塗り隠されて了つてゐた。相模灘を圧してゐる水平線の腰の辺りには、雨をでも含んでゐさうな、暗鬱な雲が低迷してゐた。もう、午後四時を廻つてゐた。
『静子が待ちあぐんでゐるに違ひない。』と思ふ毎に、汽車の廻転が殊更遅くなるやうに思はれた。信一郎は、いらいらしくなつて来る心を、ぢつと抑へ付けて、湯河原の湯宿に、自分を待つてゐる若き愛妻の面影を、空《くう》に描いて見た。何よりも先づ、その石竹色に湿《うる》んでゐる頬に、微笑の先駆として浮かんで来る、笑靨《ゑくぼ》が現はれた。それに続いて、慎ましい脣、高くはないけれども穏やかな品のいゝ鼻。が、そんな目鼻立よりも、顔全体に現はれてゐる処女らしい含羞性《シャイネス》、それを思ひ出す毎に、信一郎自身の表情が、たるん
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