つてゐた。
信一郎の言葉が、青年に通じたのだらう。彼は、それに応ずるやうに、右の手首を、高く差し上げようとするらしかつた。信一郎は、不思議に思ひながら、差し上げようとする右の手首に手を触れて見た。其処に、冷めたく堅い何かを感じたのである。夕暮の光に透して見ると、青年は腕時計をはめてゐるのであつた。
「時計ですか。此時計を何《ど》うするのです。」
烈しい苦痛に、歪んでゐる青年の面に、又別な苦悶が現はれてゐた。それは肉体的な苦悶とは、又別な――肉体の苦痛にも劣らないほどの――心の、魂の苦痛であるらしかつた。彼の蒼白《まつさを》だつた面《おもて》は微弱ながら、俄に興奮の色を示したやうであつた。
「時計を――時計を――返して下さい。」
「誰にです、誰にです。」信一郎も、懸命になつて訊き返した。
「お願ひ――お願ひ――お願ひです。返して下さい。返して下さい。」
もう、断末魔らしい苦悶に裡に、青年は此世に於ける、最後の力を振りしぼつて叫んだ。
「一体、誰にです? 誰にです。」
信一郎は縋《すが》り付くやうに、訊いた。が、青年の意識は、再び彼を離れようとしてゐるらしかつた。たゞ、低い切れ切れ
前へ
次へ
全625ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング