三

「何を出すのです。何を出すのです。」
 信一郎は、薬品をでも、取り出すのであらうと思つて訊いた。が、青年の答は意外だつた。
「雑記帳《ノートブック》を。」青年の声は、かすかに咽喉を洩れると、云ふ程度に過ぎなかつた。
「ノート?」信一郎は、不審《いぶか》りながら、鞄《トランク》を掻き廻した。いかにも鞄《トランク》の底に、三帖綴の大学ノートを入れてあるのを見出した。
 青年は、眼で肯いた。彼は手を出して、それを取つた。彼は、それを破らうとするらしかつた。が、彼の手は、たゞノートの表紙を滑べり廻る丈《だけ》で、一枚の紙さへ破れなかつた。
「捨てゝ――捨てゝ下さい! 海へ、海へ。」
 彼は、懸命に苦しげな声を、振りしぼつた。そして、哀願的な眸で、ぢいつと、信一郎を見詰めた。
 信一郎は、大きく肯いた。
「承知しました。何か、外に用がありませんか。」
 信一郎は、大声で、而も可なりの感激を以て、青年の耳許で叫んだ。本当は、何か遺言はありませんかと、云ひたい所であつた。が、さう云ひ出すことは、此のうら若い負傷者に取つて、余りに気の毒に思はれた。が、さう云つてもよいほど青年の呼吸は、迫
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