することも出来なかつた。
 階段を下りて、左へ行くと応接室があつた。右へ行くと美奈子の部屋があり、その部屋と並んで瑠璃子に与へた部屋があつた。
 瑠璃子の部屋に近づくに従つて、勝平の心にも烈しい動揺があつた。それは、年若い少年が初めて恋人の唇を知らうとする刹那のやうな、烈しい興奮だつた。彼は、さうした興奮を抑へて、ぢつと瑠璃子の部屋へ忍び寄らうとした。
 丁度、その時に、勝平は我を忘れて『アツ』と叫び声を挙げようとした。それは、今彼が近づかうとしたその扉《ドア》に、一人の人間が紛れもない一人の男性が、ピツタリと身体を寄せてゐたからである。冷たい悪寒が、勝平の身体を流れて、爪の先までをも顫はせた。彼は、電気に掛けられたやうに廊下の真中へ立ち竦んでしまつた。
 が、相手は勝平の近づくのを知つてゐる筈だのに、ピクリとも身体を動かさなかつた。扉《ドア》に彫り付けられてゐる木像か何かのやうに、闇の中にぢつと立ち尽してゐるやうだつた。
『盗賊《どろばう》!』最初勝平は、さう叫ばうかとさへ思つたが、彼の四十男に相当した冷静が彼の口を制したが、その次ぎに、ムラ/\と彼の心を閉したものは、漠然たる嫉妬だ
前へ 次へ
全625ページ中262ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング