たりを、ボンヤリ撫で廻はした彼は自分が少しも、傷付いてゐないのを知ると、まだフラ/\する眼を定めて、自分の横にゐる筈の、青年の姿を見ようとした。
 青年の身体は、直ぐ其処にあつた。が、彼の上半身は、半分開かれた扉から、外へはみ[#「はみ」に傍点]出してゐるのであつた。
「もし/\、君! 君!」と、信一郎は青年を車内に引き入れようとした。その時に、彼は異様な苦悶の声を耳にしたのである。信一郎は水を浴びたやうに、ゾツとした。
「君! 君!」彼は、必死に呼んだ。が、青年は何とも答へなかつた。たゞ、人の心を掻きむしるやうな低いうめき声が続いてゐる丈《だけ》であつた。
 信一郎は、懸命の力で、青年を車内に抱き入れた。見ると、彼の美しい顔の半面は、薄気味の悪い紫赤色を呈してゐる。それよりも、信一郎の心を、脅やかしたものは、唇の右の端から、顎にかけて流れる一筋の血であつた。而《しか》もその血は、唇から出る血とは違つて、内臓から迸つたに違ひない赤黒い血であつた。


 返すべき時計

        一

 信一郎が、青年の身体をやつと車内に引き入れたとき、運転手席から路上へ、投げ出されてゐた運転手は
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