瑠璃子の心には、暗い不安と心配とが、泥のやうに澱んでゐた。父が、昨夜遅く、十二時に近く、酒気を帯びて帰つて来たことが、彼女の新しい心配の種だつた。還暦の年に禁酒してから、数年間一度も、酒杯を手にしたことのない父だつたのだ。あれほど、気性の激しい父も、不快な執拗な圧迫のために、自棄になつたのではないかと思ふと、その事が一番彼女には心苦しかつた。
 つい此間来た、鷲の嘴のやうな鼻をした男が、今にも玄関に現れて来さうな気がして、瑠璃子は自分の居間に、ぢつと坐つてゐることさへ、出来なかつた。あの男が、父に直接会つて、弁済を求める。父が、素気《すげ》なく拒絶する。相手が父を侮辱するやうな言葉を放つ。いら/\し切つて居る父が激怒する。恐ろしい格闘が起る。父が、秘蔵の貞宗の刀を持ち出して来る。さうした厭な空想が、ひつきりなしに瑠璃子の頭を悩ました。が、午前中は無事だつた。一度玄関に訪《おとな》ふ声がするので驚いて出て見ると、得体の知れぬ売薬を売り付ける偽癈兵だつた。午後になつてからも、却々《なか/\》来る様子はなかつた。瑠璃子は絶えずいら/\しながら厭な呪はしい来客を待つてゐた。
 父は、朝食事の時
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