に、瑠璃子と顔を合はせたときにも、苦り切つたまゝ一言も云はなかつた。昨日《きのふ》よりも色が蒼く、眼が物狂はしいやうな、不気味な色を帯びてゐた。瑠璃子もなるべく父の顔を見ないやうに、俯いたまゝ食事をした。それほど、父の顔は傷《いたま》しく惨《みじめ》に見えた。昼の食事に顔を合した時にも、親子は言葉らしい言葉は、交さなかつた。まして、今日が呪はれた六月三十日であると云つたやうな言葉は、孰《どち》らからも、おくび[#「おくび」に傍点]にも出さなかつた。その癖、二人の心には六月三十日と云ふ字が、毒々しく烙《や》き付けられてゐるのだつた。
 が、長い初夏の日が、漸く暮れかけて、夕日の光が、遥かに見える山王台の青葉を、あか/\と照し出す頃になつても、あの男は来なかつた。あんなに、心配した今日が、何事も起らずに済むのだと思ふと、瑠璃子は妙に拍子抜けをしたやうな、心持にさへならうとした。
 が、然し悪魔に手抜かりのある筈はなかつた。その犠牲《いけにへ》が、十分苦しむのを見すまして、最後に飛びかゝる猫のやうに瑠璃子父子が、一日を不安な期待の裡に、苦しみ抜いて、やつと一時逃れの安心に入らうとした間隙に、
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