に。」瑠璃子は、それとなく引き止めるやうに云つた。
「いや、木下から預つた軸物が急に心配になつてね。これから行つて、届けてやらうと思ふのだ。向うでは、あゝした高価なものだとは思はずに、預けたのだらうから。」父の答へは、何だか曖昧だつた。
「それなら、直ぐ手紙でもお出しになつて、取りに参るやうに申したら、如何でございませう。別に御自身でお出かけにならなくても。」瑠璃子は、妙に父の行動が不安だつた。
「いや、一寸行つて来よう。殊に此家は、何時差押へになるかも知れないのだから。預つて置いて差押へられたりすると、面倒だから。」父は声低く、弁解するやうに云つた。さう云へば、父が直ぐ返しに行かうと云ふのにも、訳がないことはなかつた。
が、父が車に乗つて、その軸物の箱を肩に靠《もた》せながら、何処ともなく出て行く後姿を見た時、瑠璃子の心の中の妙な不安は極点に達してゐた。
六
到頭呪はれた六月の三十日が来た。梅雨時には、珍らしいカラリとした朗かな朝だつた。明るい日光の降り注いでゐる庭の樹立では、朝早くから蝉がさん[#「さん」に傍点]/\と鳴きしきつてゐた。
が、早くから起きた
前へ
次へ
全625ページ中173ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング