は、階下の自分の居間にゐながら、天井に絶間なく続く父の足音に不安な眸を向けずには、ゐられなかつた。常には、軽い足音さへ立てない父だつた。今日は異常に昂奮してゐる様子が、瑠璃子にもそれと分つた。暫らく音が、絶えたかと思ふと、又立ち上つて、ドシ/\と可なり激しい音を立てながら、部屋中を歩き廻るのだつた。瑠璃子はふと、父が若い時に何かに激昂すると、直ぐ日本刀を抜いて、ビユウビユウと、部屋の中で振り廻すのが癖だつたと、亡き母から聞いたことを思ひ出した。
 あんなに、父が昂奮してゐるとすると、若し明日荘田の代理人が、父に侮辱に近い言葉でも吐くと短慮な父は、どんな椿事を惹き起さないとも限らないと思ふと、瑠璃子は心配の上に、又新しい心配が、重なつて来るやうで、こんな時家出した兄でも、ゐて呉れゝばと、取止めもない愚痴さへ、心の裡に浮んだ。
 その日、五時を廻つた時だつた。父は、瑠璃子を呼んで、外出をするから、車を呼べと云つた。もう、金策の当《あて》などが残つてゐる筈はないと思ふと、彼女は父が突然出かけて行くことが、可なり不安に思はれた。
「何処へ行らつしやるのでございますか。もう直ぐ御飯でございますの
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