た欣びに、つい明日に迫る一家の窮境を忘れたやうに、瑠璃子に教へた。
「さうだ。早く木下に知らせてやらなければいけない。贋物だからいくら預つてゐても、心配ないと思つて預つたが、本物だと分ると急に心配になつた。さうだ瑠璃さん! 二階の押入れへ、大切に蔵《しま》つて置いておくれ!」
父は十分もの間、近くから遠くから、つくづくと見尽した後、さう云つた。
瑠璃子は、それを持つて、二階への階段を上りながら思つた。自分の手中には、一幅十万円に近い名画がある。此の一幅さへあれば一家の窮状は何の苦もなく脱することが出来る。何んなに名画であらうとも、長さ一丈を超えず、幅五尺に足らぬ布片に、五万十万の大金を投じて惜しまない人さへある。それと同時に、同じ金額のために、いろ/\な侮辱や迫害を受けてゐる自分達父娘もある。さう思ふと、手中にあるその一幅が、人生の不当な、不公平な状態を皮肉に示してゐるやうに思はれて、その品物に対して、妙な反感をさへ感じた。
その日の午後、二階の居間に閉ぢ籠つた父は、何《ど》うしたのであらう。平素《いつも》に似ず、檻に入れられた熊のやうに、部屋中を絶間なしに歩き廻つてゐた。瑠璃子
前へ
次へ
全625ページ中171ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング