ゐられなかつた。
かうして、父が負うてゐる総額二十万円に近い負債に対する数多い証書が、たつた一つの黒い堅い冷たい手に、握られてしまつた頃であつた。
ある朝、彼女は平生《いつも》のやうに郵便物を見た。――かうした通知状の来ない前は、それは楽しい仕事に違ひなかつた。其処には恋人からの手紙や、親しい友達の消息が見出されたから――。が、今では不安な、いやな仕事になつてしまつた。
彼女は、その朝もオヅ/\郵便物に目を通した。幾通かの手紙の一番最後に置かれてゐた鳥の子の立派な封筒を取り上げて、ふと差出人の名前に、目を触れたとき、彼女の視線はそこに、筆太に書かれてゐる四字に、釘付けにされずにはゐなかつた。それは紛れもなく荘田勝平の四字だつたのである。
黒手組の脅迫状を受けたやうに、悪魔からの挑戦状を受けたやうに、瑠璃子の心は打たれた。反感と、憎悪とある恐怖とが、ごつちや[#「ごつちや」に傍点]になつて、わく/\と胸にこみ上げて来た。
彼女は、その封筒の端をソツと、醜い蠑螺《ゐもり》の尻尾をでも握るやうに、摘み上げながら、父の部屋へ持つて行つた。
父は差出人の名前を、一目見ると、苦々しげに
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