れは、彼女の恋人の父の杉野子爵であつたからである。
「おや入らつしやいまし。」さう云ひながら、彼女は心の中で可なり当惑した。杉野子爵は、彼女にとつては懐しい恋人の父だつた。が、父と子爵とは、決して親しい仲ではなかつた。同じ政治団体に属してゐたけれども、二人は少しも親しんでゐなかつた。父は、内心子爵を賤しんでゐた。政商達と結託して、私利を追うてゐるらしい子爵の態度を、可なり不快に思つてゐるらしかつた。公開の席で、二三度可なり激しい議論をしたと云ふ噂なども、瑠璃子は何時となく聴いてゐた。
さうした人を、こんな場合、父に取次ぐことは、心苦しかつた。それかと云つて、自分の恋人の父を、情《すげ》なく返す気にもなれなかつた。彼女が躊躇してゐるのを見ると、子爵は不審《いぶかし》さうに訊いた。
「いらつしやらないのですか。」
「いゝえ!」彼女は、さう答へるより外はなかつた。
「杉野です。一寸お取次を願ひます。」
さう云はれると、瑠璃子は一も二もなく取次がずにはゐられなかつた。が、階段を上るとき、彼女の心にふとある動揺《どよめき》が起つた。『まさか』と、彼女は幾度も打ち消した。が、打ち消さうとすれば
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