、何よりも気遣はれたのは、着のみ着の儘で、飛び出して行つた兄の身の上である。理性の勝つた兄に、万一の間違があらうとは思はれなかつた。が、貧乏はしてゐても、華族の家に生れた兄は、独立して口を糊《すご》して行く手段を知つてゐる訳はなかつた。が、一時の激昂のために、カツと飛び出したものゝ屹度《きつと》帰つて来て下さるに違《ちがひ》ない。或は麻布の叔母さんの家にでも、行くに違《ちがひ》ない。やつと、さう気休めを考へながら、瑠璃子は涙を拭ひ拭ひ、階段を上つて行つた。二階にゐる父の事も、気がかりになつたからである。
 父はやつぱり兄の書斎にゐた。先刻と寸分違はない位置にゐた。たゞ、傍にあつた椅子を引き寄せて、腰を下したまゝぢつと俯《うつむ》いてゐるのだつた。たつた一人の男の子に、背き去られた父の顔を見ると、瑠璃子の眼には新しい涙が、また一時に湧いて来るのであつた。此の頃、交じりかけた白髪が急に眼に立つやうに思つた。
『歯が脱けて演説の時に声が洩れて困まる』と、此頃口癖のやうに云ふ通《とほり》、口の辺《あたり》が淋しく凋びてゐるのが、急に眼に付くやうに思つた。
 一生を通じて、やつて来た仕事が、自分
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