させながら、電光の如く馳け下つてゐた。
「兄さん! 待つて下さい!」
 瑠璃子が、声をしぼりながら、後から馳け下つたとき、帽子も被らずに、玄関から門の方へ足早に走つてゐる兄の後姿が、チラリと見えた。

        四

 兄の後姿が見えなくなると、瑠璃子はよゝと泣き崩れた。張り詰めてゐた気が砕けて、涙はとめどもなく、双頬を湿《うる》ほした。
 母が亡くなつてからは、父子三人の淋しい家であつた。段々差し迫つて来る窮迫に、召使の数も減つて、たゞ忠実な老婢と、その連合の老僕とがゐる丈《だけ》だつた。
 それだのに、僅かしか残つてゐない歯の中から、またその目ぼしい一本が、抜け落ちるやうに、兄がゐなくなる。父と兄とは、水火のやうに、何処まで行つても、調和するやうには見えなかつたけれども、兄と瑠璃子とは、仲のよい兄妹だつた。母が亡くなつてからは、更に二人は親しみ合つた。兄はたゞ一人の妹を愛した。殊に父と不和になつてから、肉親の愛を換し得るのはたゞ妹だけだつた。妹もたゞ一人の兄を頼つた。父からは、得られない理解や同情を兄から仰いでゐた。瑠璃子には父の一徹も悲しかつた。兄の一徹も悲しかつた。
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