て行く外はないだらう。」父の言葉は鉄のやうに堅かつた。
 瑠璃子は、胸が張り裂けるやうに悲しかつた。一徹な父は、一度云ひ出すと、後へは引かない性質《たち》だつた。それに対する兄が、父に劣らない意地張だつた。彼女が、常々心配してゐた大破裂《カタストロフ》がたうとう目前に迫つて来たのだつた。
 父の言葉に、カツと逆上してしまつたらしい兄は、前後の分別もないらしかつた。
「いや承知しました。」
 さう云ふかと思ふと、彼は俯きながら、狂人のやうに其処に落ち散つてゐる絵具のチューブを拾ひ始めた。それを拾つてしまふと、机の引き出しを、滅茶苦茶に掻き廻し始めた。机の上に在つた二三冊のノートのやうなものを、風呂敷に包んでしまふと、彼は父に一寸目礼して、飛鳥のやうに室《へや》から駈け出さうとした。
 父が、駭《おどろ》いて引き止めようとする前に、狂気のやうに室内に飛び込んだ瑠璃子は、早くも兄の左手《ゆんで》に縋つてゐた。
「兄さん! 待つて下さい!」
「お放しよ。瑠璃ちやん!」
 兄は、荒々しく叱するやうに、瑠璃子の手をもぎ放した。
 瑠璃子が、再び取り縋らうとしたときに、兄は下へ行く階段を、激しい音を
前へ 次へ
全625ページ中118ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング