に入る前の沈黙だつた。
 画布《カンバス》までも、引き裂いた暴君のやうな父の前に、真面目な芸術家として兄の血は、熱湯のやうに、沸いたのに違ひなかつた。いつもは、父に対して、冷然たる反抗を示す兄だつたが、今日は心の底から、憤つてゐるらしかつた。憤怒の色が、アリ/\とその秀でた眉のあたりに動いてゐた。
「考へて見るがいゝ。堂々たる男子が、画筆などを弄んでゐて何《ど》うするのだ。」父は、今迄張り詰めてゐた姿勢を、少しく崩しながら、苦い物をでも吐き出すやうに云つた。
「考へて、見る迄もありません。男子として、立派な仕事です。」兄の答へも冷たく鋭かつた。
「馬鹿を云へ! 馬鹿を?[#「?」はママ]」父は、又カツとなつてしまつた。「画などと云ふものは、男子が一生を捧げてやる仕事では決してないのだ。云はゞ余戯なのだ。なぐさみ[#「なぐさみ」に傍点]なのだ。お前が唐沢の家の嗣子でなければ、どんな事でも好き勝手にするがいゝ。が、俺《わし》の子であり、唐沢の家の嗣子である以上、お前の好き勝手にはならないのだ。唐沢の家には、画描きなどは出したくないのだ。俺の子は、画描きなどにはなつて貰ひたくないのだ!」
 
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