のぞき込んだ。彼女が予期した通りの光景が其処にあつた。長身の父は威丈高に、無言のまゝ、兄を睨み付けて立つてゐた。痩せた面長な顔は、白く冷めたく光つてゐる。腰の所へやつてゐる手は、ブル/\顫へてゐる。兄は兄で、昂然とそれに対してゐた。たゞさへ、蒼白い顔が、激しい興奮のために、血の気を失つて、死人のやうに蒼ざめてゐる。
父と子とは、思想も感情もスツカリ違つてゐたが、負けぬ気の剛情なところ丈《だけ》が、お互に似てゐた。父子《おやこ》の争ひは、それ丈《だけ》激しかつた。
二人の間には、絵具のチューブが、滅茶苦茶に散つてゐた。父の足下には、三十号の画布《カンバス》が、枠に入つたまゝ、ナイフで横に切られてゐた。その上に描かれてゐる女の肖像も、無残にも頬の下から胸へかけて、一太刀浴びてゐるのだつた。
さうした光景を見た丈《だけ》で、瑠璃子の胸が一杯になつた。父が、此上兄を恥《はづか》しめないやうに、兄が大人しく出て呉れるやうにと、心|私《ひそ》かに[#「私《ひそ》かに」は底本では「私《ひそか》かに」]祈つてゐた。
が、父と兄との沈黙は、それは戦ひの後の沈黙でなくして、これからもつと怖しい戦ひ
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