た。父から、描けば勘当だと厳禁されてゐるにも拘はらず、コソ/\と父の眼を盗んで、写生に行つたり、そつと研究所に通つたりする兄の心が、悲しかつた。が、何よりも悲劇であることは、さうしたお互に何の共鳴も持つてゐない人間同士が、父と子であることだつた。父が、卑しみ抜いてゐることに、子が生涯を捧げてゐることだつた。父の理想には、子が少しも同感せず、子の理想には父が少しも同感しないことだつた。
カンバスが、引き裂かれる音がした後は、暫らくは何も聞えて来なかつた。争ひの言葉が聞えて来る裡は、それに依つて、争ひの経過が判つた。が、急に静《しづか》になつてしまふと、却つて妙な不安が、聞いてゐる者の心に起つて来る。瑠璃子はまた父が、興奮の余り心悸が昂進して、物も云へなくなつてゐるのではないかと思ふと、急に不安になつて来て、争ひの舞台《シーン》たる兄の書斎の方へ、足音を忍ばせながらそつと近づいて行つた。
二
瑠璃子は、そつと足音を立てないやうに、縁側《ヴェランダ》を伝うて兄の書斎へ歩み寄つた。とゞろく胸を押へながら縁側《ヴェランダ》に向いてゐる窓の硝子《ガラス》越しに、そつと室内を
前へ
次へ
全625ページ中112ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング