信一郎の瞳にあざやかな夫人の姿が、歴々《あり/\》と浮かんで来た。彼は一刻も早く、夫人に逢ひたくなつた。其処へ、彼のさうした決心を促すやうに、九段両国行きの電車が、軋《きし》つて来た。此電車に乗れば、麹町五番町迄は、一回の乗換さへなかつた。

        六

 電車が、赤坂見附から三宅坂通り、五番町に近づくに従つて、信一郎の眼には、葬場で見た美しい女性の姿が、いろいろな姿勢《ポーズ》を取つて、現れて来た。返すべき時計のことなどよりも、美しき夫人の面影の方が、より多く彼の心を占めてゐるのに気が付いた。彼は自分の心持の中に、不純なものが交りかけてゐるのを感じた。『お前は時計を返す為に、あの夫人に逢ひたがつてゐるのではない。時計を返すのを口実として、あの美しい夫人に逢ひたがつてゐるのではないか。』と云ふ叱責に似た声を、彼は自分の心持の中に感じた。それほど、瑠璃子と呼ばれる女性の美しさが、彼の心を悩まし惑はしたが、信一郎は懸命にそれから逃れようとした。自分の責任は、たゞ青年の遺言|通《どほり》に、時計を真の持主に返せばいゝのだ。荘田瑠璃子が、どんな女性であらうとあるまいと、そんな事は何の問題でもないのだ。たゞ、夫人が本当に時計の持主であるかどうかゞ、問題なのだ。自分はそれを確めて、時計を返しさへすれば、責任は尽きるのだ。信一郎は、さう強く思ひ切らうとした。が、幾何《いくら》強く思ひ切らうとしても、白孔雀を見るやうな、※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]たけた若き夫人の姿は、彼が思ふまいとすればするほど、愈《いよ/\》鮮明に彼の眼底を去らうとはしなかつた。
 青い葉桜の林に、キラ/\と夏の風が光る英国大使館の前を過ぎ、青草が美しく茂つたお濠の堤《どて》に沿うて、電車が止まると、彼は急いで電車を降りた。彼の眼の前に五番町の広い通《とほり》が、午後の太陽の光の下に白く輝いてゐた。彼は、一寸した興奮を感じながらも、暫くは其処に立ち止まつた。紳士として、突然訪ねて行くことが、余りにはしたない[#「はしたない」に傍点]やうにも思はれた。手紙位で、一応面会の承諾を得る方が、自然で、かつは礼儀ではないかと思つたりした。が、さうした順序を踏んで相手が、会はないと云へば、それ切りになつてしまふ。少しは不自然でも、直截に訪問した方が、却つて容易に会見し得るかも知れな
前へ 次へ
全313ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング