、荘田家はあの奥さんと、美奈子と云ふ十九の娘さんだけです。それで、奥さんは離縁にもならず、娘さんの親権者として荘田家を切廻してゐるのです。」
「なるほど。それぢや、後妻に来られたわけですね。あの美しさで、あの若さで。」と、信一郎は事毎に意外に感じながらさう呟いた。
大学生は、それに対して、何か説明しようとした。が、もう二人は青山一丁目の、停留場に来てゐた。学生は、今発車しようとしてゐる塩町行の電車に、乗りたさうな容子を見せた。
信一郎は、最後の瞬間を利用して、もう一歩進めて見た。
「突然ですが、ある用事で、あの奥さんに、一度お目にかゝりたいと思ふのですが、紹介して下さる訳には……」と、言葉を切つた。
大学生は、信一郎のさうしたやゝ不自然な、ぶつきら棒な願ひを、美貌の女性の知己になりたいと云ふ、世間普通な色好みの男性の願と、同じものだと思つたらしく、一寸嘲笑に似た笑ひを洩さうとしたが、直ぐそれを噛み殺して、
「貴君の御身分や、御希望を精しく承らないと、僕として一寸紹介して差上げることは出来ません。尤も、荘田夫人は普通の奥さん方とは違ひますから、突然尋ねて行かれても、屹度《きつと》逢つて呉れるでせう。御宅は、麹町の五番町です。」
さう云ひ捨てると、その青年は身体を捷《すばしこ》く動かしながら、将に動き出さうとする電車に巧に飛び乗つてしまつた。
信一郎は、一寸おいてきぼりを喰つたやうな、稍々《やゝ》不快な感情を持ちながら、暫らく其処に佇立した。大学生に話しかけた自分の態度が、下等な新聞記者か何かのやうであつたのが、恥しかつた。どんなに、あの女性の本名が知りたくてももつと上品な態度が取れたのにと思つた。
が、さうした不愉快さが、段々消えて行つた後に、瑠璃子と云ふ女性の本体を掴み得た満足が其処にあつた。而も、瑠璃子と云ふ女性が、今も尚ハンカチーフに包んで、ポケットの底深く潜ませて、持つて来た時計の持主らしい。凡ての資格を備へてゐることが何よりも嬉しかつた。短剣を鏤めた白金《プラチナ》の時計と、今日見た瑠璃子夫人の姿とは、ピツタリと合ひすぎるほど、合つてゐた。今日にでも夫人を訪ねれば、夫人は屹度、死んだ青年に対する哀悼の涙を浮べながら、あの時計を受取つて呉れるに違《ちがひ》ない。そして、自分と青年との不思議な因縁に、感激の言葉を発するに違《ちがひ》ない。さう思ふと、
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