真珠夫人
菊池寛
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)焦燥《もどか》しさ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|お母親さん《マヽン》!
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)ウ※[#小書き片仮名ヰ、17−上−16]スキイ
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いら/\させた
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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奇禍
一
汽車が大船を離れた頃から、信一郎の心は、段々烈しくなつて行く焦燥《もどか》しさで、満たされてゐた。国府津迄の、まだ五つも六つもある駅毎に、汽車が小刻みに、停車せねばならぬことが、彼の心持を可なり、いら立たせてゐるのであつた。
彼は、一刻も早く静子に、会ひたかつた。そして彼の愛撫に、渇《かつ》ゑてゐる彼女を、思ふさま、いたはつてやりたかつた。
時は六月の初《はじめ》であつた。汽車の線路に添うて、潮のやうに起伏してゐる山や森の緑は、少年のやうな若々しさを失つて、むつとするやうなあくどさ[#「あくどさ」に傍点]で車窓に迫つて来てゐた。たゞ、所々植付けられたばかりの早苗が、軽いほのぼのとした緑を、初夏の風の下に、漂はせてゐるのであつた。
常ならば、箱根から伊豆半島の温泉へ、志ざす人々で、一杯になつてゐる筈の二等室も、春と夏との間の、湯治には半端な時節であるのと、一週間ばかり雨が、降り続いた揚句である為とで、それらしい乗客の影さへ見えなかつた。たゞ仏蘭西《フランス》人らしい老年の夫婦が、一人息子らしい十五六の少年を連れて、車室の一隅を占めてゐるのが、信一郎の注意を、最初から惹いてゐるだけである。彼は、若い男鹿の四肢のやうに、スラリと娜《しなやか》な少年の姿を、飽かず眺めたり、父と母とに迭《かた》みに話しかける簡単な会話に、耳を傾けたりしてゐた。此の一行の外には、洋服を着た会社員らしい二人連と、田舎娘とその母親らしい女連が、乗り合はしてゐるだけである。
が、あの湯治階級と云つたやうな、男も女も、大島の揃か何かを着て、金や白金《プラチナ》や宝石の装身具を身体のあらゆる部分に、燦かしてゐるやうな人達が、乗り合はしてゐないことは信一郎にとつて結局気
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