すわ。」
 美奈子は、消え入るやうな声で云つた。彼女は暫く考へてゐたが、
「青木さんなんかよりも、妾《わたし》美奈さんに済まないと思つてゐますの。どうぞ、堪忍して下さい。どうぞ。」
 母の声には、深い本心が、アリ/\と動いてゐた。美奈子でさへ、一度も聴いたことのないやうなしんみりとした、心の底からにじみ出たやうな声だつた。
「美奈さん。間違つてゐたら、御免なさい。妾《わたし》、貴女のお心が分つたの。青木さんに対する貴女のお心が。」
 さう、心の底を見抜かれると、美奈子は、サツと色を変へながら、うつ伏してしまつた。
「美奈さん、貴女《あなた》は、一昨日の晩、妾《わたし》と青木さんとが、話したことをすつかり、お聴きになつたのでせう。いゝえ、貴女がお聴きになつたのではなく、貴女がいらつしやるとは知らずに、妾《わたし》達がいろ/\なことを話しましたでせう。妾《わたし》、あの晩部屋へ帰らうとして、外出なさらうとする貴女のお顔を見たときに、もう凡てが分つたやうな気がしたのです。絶望その物のやうな貴女のお顔を見て、妾《わたし》は、凡てが分つたやうな気がしたのです。妾《わたし》は、それまでにもしやと思つたことが、一二度あつたのです。そのもしや[#「もしや」に傍点]が、本当だと云ふことが分ると、妾《わたし》は、大変なことが起つたと思つたのです。妾《わたし》の犯した失策が、取り返しのつかないものだと云ふことを知つたのです。」
 母の言葉が、ます/\真剣な悲痛な響を帯びて来た。
 美奈子は、俎上に上つたやうな心持で、母の言葉をぢつと聴いてゐる外はなかつた。恥かしさと悲しさとで、裂けるやうな胸を持ちながら。
「妾《わたし》、今度のことで、妾《わたし》の生活が全然破産したことを知つたのです。男性に向つて吐いた唾が、自分に飛び返つて来たことを知つたのです。どうか、美奈さん。妾《わたし》の懺悔を聴いて下さい。」
 快活な、泣き言などは、ちつとも云つたことのない母の声が、悲しみに湿《うる》んでゐた。

        七

「青木さんなんかに、妾《わたし》初めから、何の興味も持つてゐなかつたのです。青木さんを箱根へ連れて来たのなども、妾《わたし》のホンの意地からなのです。ある別な男の方に対する妾《わたし》の意地からなのです。ある男の方が、妾《わたし》に、青木さん丈《だ》けは、誘惑して呉れては困ると
前へ 次へ
全313ページ中289ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング