に、軽く打ち振りながら、グン/\急ぎ足で歩いた。
美奈子は、一体此の青年が、近所のどの家に入るのかと、わざと自分の歩調を緩めながら、青年の後姿を眼で追つてゐた。
その時に、彼女を駭かすやうな思ひがけないことが、起つた。
「おや! あの方、家へいらつしやるのぢやないかしら。」
美奈子は、思はずさう口走らずにはゐられなかつた。
九段の方へグン/\歩いて行くやうに見えた青年は、美奈子の家の前まで行くと、だん/\その門に吸ひ付けられるやうに歩み寄るのであつた。
青年は、門の前で、ホンの一瞬の間、佇立した。美奈子は、やつぱり通りがかりに、一寸邸内の容子を軽い好奇心から覗くのではないかと思つた。が、佇ずんで一寸何か考へたらしい青年は、思ひ切つたやうに、グン/\家の中へ入つて行つた。ステッキを元気に打ち振りながら。
「お客様ですわ、奥様の。」
女中は、美奈子の前の言葉に答へるやうに言つた。
いかにも、女中の言ふ通《とほり》、母の客間《サロン》を訪ふ青年の一人に違ひないことが美奈子にも、もう明かだつた。
「お前、あの方知つてゐるの?」
美奈子は、心の裡の動揺を押しかくすやうにしながら、何気なく訊いた。
「いゝえ! 存じませんわ。妾《わたくし》はお客間の方の御用をしたことが、一度もないのでございますもの。きくや[#「きくや」に傍点]なら、きつと存じてをりますわ。」
きくや[#「きくや」に傍点]と云ふのは、母に従《つ》いてゐる小間使の一人だつた。
美奈子は、兎に角その青年が、自分の家に出入りしてゐると云ふことを知つたことが、可なり大きい欣びだつた。自分の家に出入りしてゐる以上、会ふ機会、知己《しりあひ》になる機会が、幾何《いくら》でも得られると思ふと、彼女の小さい胸は、歓喜のために烈しく波立つて行くのだつた。が、それと同時に、母が前から、その青年と知り合つてゐること、その青年とお友達であることが、不思議に気になり出した。今までは、母が幾何《いくら》若い男性を、その周囲に惹き付けてゐようとも、それは美奈子に取つて、何の関係もないことだつた。が、この青年までが、母の周囲に惹き付けられてゐるのを知ると、美奈子は平気ではゐられなかつた。かすかではあるが、母に対する美奈子の純な濁らない心持が、揺ぎ初めた。
美奈子が、心持足を早めて、玄関の方へ近づいて見ると、青年は取次が帰つ
前へ
次へ
全313ページ中235ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング