いてゐた。
「あら、あれは妾《わたくし》にお預けして下さつたのぢやないのですか。一旦お預けして下さつた以上、男らしくもないぢやありませんか。また返せなどと仰しやるのは。」
 信一郎を揶揄《からか》つてゐるやうに、冷かしてゐるやうに、夫人の語気は、ます/\辛辣になつて行つた。
「いや、お預けしたことは、お預けしました。が、それは返すべき相手が分らなかつたからです。また、何《ど》う云ふ心持で返すのかが、分らなかつたからです。今こそ、返すべき女性がハツキリと分つたのです。また、何う云ふ態度で、あの時計を返すべきかも、ハツキリと分つたのです。僕は、あの時計を貴女から返していたゞいて、その本当の持主に、一番適当な態度で、返さねばならぬ責任を青木君に対して、感じてゐるのです。どうか直ぐお返しを願ひたいと思ひます。」
 夫人の顔は、遉《さすが》に少しく動揺した。が、信一郎が予想してゐたやうに、狼狽の容子は露ほども見せなかつた。
「そんなに、面倒臭い時計なのですか、それぢや、お預りするのではなかつたわ。それぢや只今直ぐお返しいたしますわ。」
 夫人は、手軽に、借りてゐたマッチをでも返すやうに、手近の呼鈴《ベル》を押した。
 二人は、黙々として、暫らく相対してゐる裡に、以前の小間使が、扉《ドア》を静《しづか》に開けた。
「あのね。応接室の、確か炉棚《マンテルピース》の上の手文庫の中だつたと思ふのだがね。壊れた時計がある筈だから持つて来て下さいね。若し手文庫の中になかつたら、あの辺を探して御覧! 確かあの近所に放り散かして置いた筈だから。」
 信一郎が、あれほどまでに、心を労してゐた時計を、夫人は壊れた玩具か何かのやうに、放りぱなしにしてゐたのだつた。青木淳が臨終にあれほどの恨《うらみ》を籠めた筈の時計は、夫人に依つて、意味のない一箇の壊れ時計として、炉棚《マンテルピース》の上に、信一郎から預かつた時以来忘れられてゐたのである。
 夫人から、そんなにまで手軽く扱はれてゐる品物に就いて、返すとか返さないとか、躍起になつてゐることが、信一郎には一寸気恥しいことのやうに思はれた。
 が、夫人のあゝした言葉や態度は、心にもない豪語であり、擬勢である、口先でこそあんなことを云ひながらも、彼女にも人間らしい心が、少しでも残つてゐる以上、心の中では可なり良心の苛責を受けてゐるのに違《ちがひ》ない。信
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