しい夫人であるとは云へ、男性たるものが、かうも手軽に、人形か何かのやうに飜弄せられることは、何うにも堪らないことだと思つた。今こそ全力を尽して彼女と、戦ふべき日であると思つた。激怒のために、波立つ胸を、彼はぢつと抑へ付けながら云つた。
「奥さん! 折角ですが、僕にはまだ帰られない用事があります。」
 信一郎の言葉は、可なり顫へを帯びてゐた。
「おや! 御用事。それぢや直ぐ承はらうぢやありませんか。妾《わたくし》、またこんな部屋には、一刻もお止まりになるお心はなくなつたのだらうと思つてゐました。」
 夫人は、凄いほどに、落着いてゐた。
 信一郎は、蒼白《まつさを》になりながら、懸命に冷静な態度を失ふまいとした。
「奥さん! 帰るときが来れば、お指図を待たなくつても帰ります。が、只今伺つたのは、貴女のお手紙の為ばかりぢやないのです。僕がどんなに軽薄な人間でも、一度席を蹴つて帰つた以上、貴女のお召状|丈《だけ》で、ノメ/\とやつては来ません。」
「おや! それでは、妾《わたくし》はその点でも飛んだ思違ひをしてゐましたのね。」
 夫人は、針のやうな皮肉を含みながら、冷やかに笑つた。信一郎はいらだつた。
「貴女に申し上ぐべきこと、当然お願ひすべき用事があればこそ参つたのです。それが済むまでは、貴女が幾ら帰れと仰しやつたつて、帰れません。貴女も一度僕と会つた以上、自分の用事丈が、済んだと云つて、さう手軽に僕を追ひ返す権利はありません。」
「大変御尤もな仰せです。それではその用事とかを承はらうぢやありませんか。」
 夫人の皮肉な態度は突き刺すやうなトゲ/\しさを帯び初めた。

        七

 夫人の皮肉なトゲに、突き刺されながらも、信一郎は、やつと自分自身を支へることが出来た。
「用事と云つて、外ではありませんが、いつか貴女にお預けして置いたあの白金《プラチナ》の時計を、返していたゞきたいと思ふのです。死んだ青木君から遺託を受けたあの時計をです。」
 信一郎は、一生懸命だつた。彼は、身体が激昂のために、わなゝかうとするのをやつと、抑へながら喋べつた。が、その声は変に咽喉にからんでしまつた。
 夫人の冷たさは、愈々《いよ/\》加はつた。その美しい面は、象牙で彫んだ仮面か何かのやうに、冷たく光つてゐた。『何を!』と、云つたやうな利かぬ気の表情が、その小さい真赤な唇のあたりに動
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