に、思はず戦慄を禁じ得なかつた。

        五

 が、時計を返すとして、一体誰に返したらいゝのだらうかと、信一郎は思つた。青年が、死際に口走つた瑠璃子と云ふ名前の女性に返せばいゝのかしら。が、瑠璃子と云つたのは、時計を返すべき相手の名前を、云つたのだらうか。時計などとは何の関係もない、青年などとは何の関係もない青年の恋人か姉か妹かの名ではないのかしら。
『時計を返して呉れ。』と云つたとき、青年の意識は、可なり確《たしか》だつた。が、息を引き取る時には、青年の意識は、もう正気を失つてゐた。
『瑠璃子!』と、叫んだのは、たゞ狂つた心の最後の、偶然な囈語《うはごと》で、あつたかも知れなかつた。が、瑠璃子と云ふ名前は、青年の心に死の刹那に深く喰ひ入つた名前に違ひなかつた。丁度、腕時計が、死の刹那に彼の手首の肉に、喰ひ入つてゐたやうに。
 信一郎は、再度その小形な腕時計を、手許に迫る夕闇の中で、透して見た。ぢつと、見詰めてゐると最初銀かニッケルと思つた金属は、銀ほどは光が無くニッケルほど薄つぺらでないのに、気が付いた。彼は指先で、二三度撫でて見た。それは、紛ぎれもなく白金《プラチナ》だつた。しかも撫でてゐる指先が、何かツブ/\した物に触れたので、眸を凝すと、鋭い光を放つ一顆の宝石が、鏤められてゐた。而もそれは金で象眼された小さい短剣の柄に当つてゐた。それは希臘《ギリシヤ》風の短剣の形だつた。復讐の女神ネメシスが、逆手に掴んでゐるやうな、短剣の形だつた。信一郎は、その特異な、不思議な象眼に、劇しい好奇心を、唆られずにはゐられなかつた。時計の元来の所有者は、女性に違ひなかつた。が、その象眼は、何と云ふ女らしからぬ、鋭い意匠だらう。
 日は、もうとつぷりと、暮れてしまつた。海上にのみ、一脈の薄明が、漂うてゐるばかりだつた。運転手は、なか/\帰つて来なかつた。淋しい海岸の一角に、まだ生あたゝかい死屍を、たゞ一人で見守つてゐることは、無気味な事に違ひなかつた。が、先刻から興奮し続けてゐる信一郎には、それが左程、厭はしい事にも気味の悪い事にも思はれなかつた。彼はある感激をさへ感じた。人として立派な義務を尽してゐるやうに思つた。
 信一郎は、ふとかう云ふ事に気が付いた。たとひ、青年からあゝした依託を受けたとしても、たゞ黙つて、此の高価な白金《プラチナ》の時計を、死屍から持ち去つて
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